・人には成すべきことが定められている。
人生の第一義的な尊さは、その時、その時の、務めを果していくこと。
つまり、人生は瞬間、瞬間において清算されていかなければならない。
小さいことの積み重ねが自信となり、それが、明日への自信に繋がって行く。
失われた時は、決して再び戻っては来ない。
時間には、過去も未来もなく、その時があるだけ。
「過去には、記憶が、未来には期待がある」としても、
私達にはどうすることも出来ない。
この、成すべきことを成さずに、“いずれ”とか、“いまに”といった、おざなりな時を過していると、
負債感が生じ、いつしか、心に虚しい穴があいてくる。
これが積もり積もって、負い目になる。
気づかないうちに、自分で自分に大きな借金を背負わせてしまう。
人から頼まれもしないのに、自分で、わざわざ借金を背負って歩くことほど、バカな事はない。
自分の人生が不自由であるだけなら、それで済むが、
自分を信じてくれる多くの周囲の人たちも巻き込んで、ともに苦しい道を歩ませることになる。
我々は、日々格別のことをしているわけではない。
ヤレヤレといったささやかな達成感に浸るだけである。
世に大きい仕事があるわけではなく、小さい仕事のつみ重ねがあるだけのこと。
いかなる立場にあろうとも、一人一人の仕事は常に平凡である。
社会が高度化、複雑化すればするほどに、
我々には“高度の平凡性に徹する”態度が求められる。
現実社会を信じる態度が高度であり、個人の立場はあくまで平凡でなければならない。
認められるとか、認められないとかに、腐心する必要はない。
何より自分の人生を大切にすることである。
その時の味方は「愚鈍」・「凡庸」・「根気」である。
人生は、この気持をどの程度、持ち続けることができるか、それだけが問われているに過ぎない。
哲学者バートランド・ラッセルは新聞記者に
「あなたは、自分の信じることのため、生命を賭けるだけの覚悟がおありですか」と聞かれて
「とんでもない。それに、結局のところ、私の方が間違っているかも知れませんからね」と答えたという。
自信があるとは、また柔軟心があるということでもある。
柔軟心とは“そうかも知れないし、そうでないかも知れない”という考え方ができることだそうだ。
我々が、社会生活で遭遇する問題は、すべて方法論に関することであり、
方法が、それしかないというのは、一種の囚われである。
どの世界にも、自説を固執して意見を曲げない人がいる。
本人は信念のつもりでも偏屈である場合が多い。
頑固な人とは、人の話が聞けない権威主義者であり、
人生経験をつむほどに、頑固になる人と、柔軟になる人とに分かれてくるそうだ。
物事が判断できずに二分した場合、
全ての考えを放擲し、頭を休めさせれば良いのである。
相場を休むとは、そういうことなのである。
毎日、相場を語っている自分が一番、判っていなかったことにきづいた次第。(合掌)
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